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もはやわたしではなく、キリストである


祈り

主よ、わたしたち自身は間違いを犯す性質を持っています。わたしたちは、あなたがわたしたちを救ってくださることを信じます。わたしたちがわたしたちの自己を拒絶し否むことを学ばせてください。


詩歌:561


本日の聖書箇所:マルコ11:1-26


重点の節:

マルコ11:24 こういうわけで、わたしはあなたがたに言う.あなたがたが祈って求めるものはすべて、受けたと信じなさい.そうすれば、そのとおりになる。


質問にお答えください


  1. 「柔らかい葉の茂った枝を重ねて敷いた」とは何を表徴するでしょうか?(参照:マルコ11章8節 フットノート1ノート2
  2. イエスがいちじくをのろわれたことは、何を予言するでしょうか?(参照:マルコ11章14節 フットノート1
  3. わたしたちは祈るとき、何に注意すべきでしょうか?(参照:マルコ11:23-25

命の供給

 十字架を負うのは苦難の事柄ではありません。むしろ、それはキリストが十字架上でわたしたちを終わらせたことを、わたしたちの生活に適用する事柄です。ですから、十字架を負うとは、この終結を自分自身に適用することです。日ごとに、わたしたちはそのような終結を適用する必要があります。こうするなら、わたしたちは苦しんでいるのではなく、終わらせられ、終結させられ、終わりにされていることを認識するでしょう。

 仮にある兄弟が言うとします、「神に感謝します。彼は主権の中でわたしを苦しめ、十字架を負わせる妻を与えてくださいました。わたしの妻は神によってわたしに与えられた十字架です。ですから今、わたしはこの十字架を負わなければなりません」。これは十字架を負うことが何を意味するかの重大な誤解です。実は、この誤解はカトリックに見いだされるものと関係があります。十字架についてのこの誤解は少なくともある程度、「キリストに倣いて」と題する有名な本によって推し進められてきました。

 結婚した兄弟はいかに苦しむかを学ぶ必要はありません。むしろ、彼は夫として、自分はすでにキリストの中で終わらせられており、今や彼は終わらせられた夫として、ただキリストの終結を享受して生きるべきことを認識する必要があります。その時、彼は妻に言うかもしれません、「わたしは良い夫であろうとか、親切で優しい夫であろうとかはしていない。わたしは終わらせられた夫としてここにいる。わたしはキリストの終結を経験しようとすればするほど、ますます良い夫になる。それは、キリストがわたしの中で生きられるからだ。彼はわたしの中で生きるとき、わたしを通してあなたの夫になられる」。

 主について行くとは、彼にあずかり、彼を享受し、彼を経験し、彼をわたしたちの存在そのものとならせることです。このようにして主について行くために、わたしたちは自分自身を否む必要があります。わたしたちはキリストが十字架上で達成された終結を自分自身に適用する必要があります。これは、わたしたちの十字架を負うことが、キリストの終結を自分自身に適用することを意味します。これを行なうとき、わたしたちは苦しんでいる人ではなく、抹殺された人となります。そのときわたしたちは証しすることができます、「わたしはキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです」。

 わたしたちにとって十字架を負うとは、キリストの死の殺しの下にとどまって、わたしたちの自己、天然の命、古い人を終わらせることです。そうすることで、わたしたちは自己を否み、主に従って行きます。(マルコによる福音書ライフスタディ、メッセージ25)

明日の主題:隅のかしら石になった