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イエスが十字架につけられる


祈り

主よ、あなたの敵を辱めて下さい。彼はすでにあなたの十字架の下で滅ぼされました。わたしたちはあなたの召会の中にあり、彼はあなたの足の下です。この場所で、彼にはどんな地位もなく、あなたが全ての栄光を得られます。


詩歌:744


本日の聖書箇所:マルコ16:1-20


重点の節:

マルコ16:16 信じてバプテスマされる者は救われる.しかし、信じない者は罪に定められる。


本日のフットノート抜粋


信じることは、奴隷・救い主を受け入れることであり(ヨハネ1:12)、これは罪の赦しのためだけでなく(使徒10:43)、再生のためでもあります(Iペテロ1:21、23)。信じた者たちは、三一の神との有機的な結合の中で(マタイ28:19)、神の子供たち(ヨハネ1:12-13)、キリストの肢体となります(エペソ5:30)。バプテスマされることは、奴隷・救い主の死を通して葬られ、旧創造を終わらせることによって、また、奴隷・救い主の復活を通して復活させられ、神の新創造となることによって、これを確認することです。そのようなバプテスマは、ヨハネによる悔い改めのバプテスマよりはるかに進んでいます(マルコ1:4使徒19:3-5)(参照:マルコ16章16節 フットノート1)。


命の供給

 主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」と叫ばれたとき、それは彼がわたしたちの罪を担い(Iペテロ2:24)、わたしたちのために罪とされ(IIコリント5:21)、罪人の立場を取っておられた時でした(Iペテロ3:18)。これは、神が彼をわたしたちの罪の身代わりとして裁かれたことを意味します。神の目に、キリストは大罪人となりました。神がキリストを罪とされたのは、彼が十字架上にあった最後の三時間、12時から午後3時まで、暗黒が全地を覆った時であったとわたしは信じます。神はキリストをわたしたちの身代わりとしただけでなく、彼をわたしたちに代わって罪とされました。キリストがわたしたちの身代わりであり、神の目に罪とされたからこそ、神は彼を裁かれたのです。

 ヨハネの第一の手紙第1章7節は、神の御子、イエスの血がすべての罪からわたしたちを清めると言います。「イエス」という名は、主の人性を示し、それは贖いの血を流すために必要とされました。また「御子」という称号は、主の神性を示し、それは贖いの血の永遠の効力のために必要とされました。こうして神の御子、イエスの血は、堕落した被造物を贖うための神の真正な人の正当な血であり、この血は空間においては、あまねく行き渡り、時間においては永続する効力、その永遠の効力についての神聖な保証を持っていることを示します。

 非常に多くの消極的なものの対処に加えて、キリストの死はまた積極的な面を持っています。ヨハネによる福音書第12章24節で主イエスはこのことについて語っておられます、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ」。これはキリストの死のことを言っています。彼のすべてを含む死は、彼の内側にあった神聖な命を解放しました、そしてこの命は多くの穀粒を生み出しました。

 消極的な面では、キリストのすべてを含む死は罪の行為、罪の性質、古い人、旧創造、サタン、この世、規定の問題を解決しました。積極的な面では、キリストの永遠の死は彼の内側から神聖な命を解き放ちました。キリストの死は何と偉大でしょう! この死は宇宙におけるすべての消極的なものを一掃し、また新しい人を生み出す永遠の命を解き放ちました。この新しい人は王国の種、王国の遺伝子の究極的完成、神の永遠の王国となる究極の完成です。(マルコによる福音書ライフスタディ、メッセージ48、49)

明日の主題:すべての民に及ぶ大いなる喜びの良き訪れ