ヨハネ12:36 あなたがたは、光がある間に、光の子となるために、光の中へと信じなさい・・・・
ヨハネによる福音書第12章で啓示された主の死は、贖いの死ではなく、生み出す死、再生する死です。この死によって、人性という肉体の殻は破られ、主は三重の目的を達成されました。すなわち、(1)多くの穀粒を生み出し、すべての人をご自身へと引き寄せる(24、32節)。(2)神聖な要素、永遠の命を解き放す(23、28節)。(3)この世を裁き、この世の支配者、サタンを追い出す(31節)。わたしたちは彼の死を経験してはじめて、主が達成された三重の目的にあずかることができます(参照:ヨハネ12章32節 フットノート1、第二段落)。
主は一粒の麦であり、その一粒の麦が増し加わるには、地に落ちて死ぬ以外に道はありません。これが命の増殖する道です。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままであり、決して何も生み出さないでしょう。しかし、主を賛美します、死んで生長すると、その一粒は多くの穀粒、あるいは多くの実となります。これらの多くの穀粒、あるいは多くの実が召会です。これが、召会が存在するに至る道です。これはまた、主が召会を増し加えられる道です。これは、わたしたちが召会を生み出し、増し加える道でなければなりません。わたしたちは死によって、十字架を取ることによって、人の歓迎に直面しなければなりません。召会が存在するに至り、増し加わる道は、人の栄光によるのではありません。それは十字架の死によります。
中国に行った多くの宣教士たちの中に、マーガレット・E・バーバーという名の姉妹がいました。彼女は英国宣教団によってそこに遣わされました。彼女は虚偽の訴えを受けて、英国に呼び戻され、後ほど主によって立証されました。その後、主は彼女に中国に戻る負担を与えられました。彼女はいかなる宣教団によって遣わされたのでもなく、信仰によってそこへ行き、パゴダ(羅星塔)という名の小さな町に定住しました。そこはウオッチマン・ニー兄弟の故郷に非常に近い所です。彼女はことさらそこにとどまり、他の場所を訪れませんでした。ある意味で、主は彼女をそこに一粒の麦としてまかれたのです。彼女はそこに何年間もとどまり、1929年にそこで亡くなりました。
人の外側の活動の一時的な成功によって、煩わされてはなりません。主にしばらくの時間を与えるなら、彼は命の中の彼の道を立証されます。そのような働きは、活動の事柄ではなく命の事柄です。これは召会を生み出し、増し加える命の働きです。
造花を作る例を用いましょう。あなたが造花を作る人々を雇うなら、短時間のうちに多く製造することができるでしょう。しかしながら、あなたが花を育てようとするなら、それには長い時間がかかるでしょう。あなたはまず種をまかなければなりません。その種は生長し、増殖するでしょう。そうすれば、さらに多くの種が地に落ちて、繰り返し生長し、増殖するでしょう。このような増殖は長い間続くでしょう。あなたはどの種類の増殖を持つことを期待するでしょうか―外側の労苦によって製造された造花でしょうか、それとも命によって生み出された本物の花でしょうか?(ヨハネによる福音書ライフスタディ、第26編)
主よ、わたしたちは命の増殖による人の増し加わりを求めます。わたしたちの働きは外側の活動の一時的な成功によって、煩わされてはなりません。わたしたちは活動によってではなく命によって召会が生み出され、増し加えられる、命の働きを望みます。わたしたちは十字架を取り、一粒の麦としてまかれ、地に落ちて死に、命の増殖をもたらすことを願います。