ヨハネ17:17 彼らを真理の中で聖別してください.あなたの言は真理です。
ヨハネによる福音書第17章21節の「一」は信者たちの一の第二の面です。そしてそれは、聖別を通しての三一の神の中での一であり、神の言葉によるこの世からの分離です。一のこの面において、この世から神へと分離された信者たちは、彼らの一の要因としての三一の神を享受します。
22節は、「彼らも一となる」と言います。これは信者たちの一の第三の面であり、神の団体的表現のための、神聖な栄光における一です。一のこの面において、信者たちは彼らの自己が完全に否定されて、彼らの完成された一の要因として御父の栄光を享受し、こうして、団体的な建造された方法で神を表現します。これは神聖な委託の一であり、それは御子の祈りを成就します。すなわち、信者たちが建造されることによって、御子が完全に表現され、栄光が現されるということです(参照:ヨハネ17章21節 フットノート1、22節のノート2)。
ヨハネによる福音書第15章1節から11節に、ぶどうの木とその枝が一つの有機体であって、神聖な命の豊富を表現して御父の栄光を現すことを見ます。
組織と有機体との違いは何でしょうか? 例えば、テーブルは組織です。なぜなら、多くの木片が集められて、一つの実体を形作っているからです。なぜテーブルは組織であって、有機体ではないのでしょうか? なぜなら、単位としてのテーブルには一つの器官もないからです。テーブルに器官がないのは、テーブルに命がないからです。一見して、わたしたちの体も組織です。しかしながら、それははるかに組織以上のものです。なぜなら、わたしたちは器官と命の両方を持っているからです。わたしたちの体に器官と命があるので、それは有機体であって、単なる組織ではありません。同じように、召会、キリストのからだは有機体です。
ヨハネによる福音書第15章では、この有機体はぶどうの木にたとえられています。ぶどうの木が、このすばらしい有機体の図型として用いられています。このぶどうの木の内側には、木そのものとそのすべての枝があります。主イエスは、ぶどうの木は彼ご自身であると言われました(1節)。彼は木であり、わたしたちはこの木の枝です。この明確な絵によって、わたしたちがその木の枝分かれしたものであるのを見ることができます。なぜなら、枝はぶどうの木からの枝分かれであるからです。もし枝を切り離すなら、枝のない裸の木があるだけで、ぶどうの木の枝分かれはないでしょう。しかし今日、この宇宙的なぶどうの木には多くの枝があり、これらの枝は彼の枝分かれです。主イエスは地上におられた時、ある場所に住んでいた小さな人にすぎませんでした。しかし今日、彼の枝分かれを見てください。彼はワシントンDC、ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、フランクフルト、東京、マニラ、台北、香港、全世界に渡って枝分かれした部分を持っておられます。主を賛美します、わたしたちは全地にこのぶどうの木の枝分かれを見ます! これは組織ではありません。これは、命と多くの器官、有機的体系、その中で成長している有機的要素を持つ有機体です。(ヨハネによる福音書ライフスタディ、第33編)
主よ、召会、あなたのからだは有機体です。あなたは真のぶどうの木であり、ぶどうの木の内側には、木そのものとそのすべての枝、わたしたちがいます。今日、宇宙的なぶどうの木には多くの枝があり、これらの枝はあなたの枝分かれです。主を賛美します!あなたは全世界に渡って枝分かれした部分を持っておられます。これは組織ではありません!これは、命と多くの器官、有機的体系、その中で成長している有機的要素を持つ有機体です!