ガラテヤ5:16 ・・・・その霊によって歩きなさい.そうすればあなたがたは、決して肉の欲を満たすことはありません。
ガラテヤ人への手紙第5章16節のその霊は、聖霊であるに違いありません。この聖霊は、わたしたちの再生された霊の中に住んで、それと混ざり合われます。その霊によって歩くとは、わたしたちの歩みが、わたしたちの霊の内側から、聖霊によって規制されることです。これは、わたしたちの歩みが、肉の領域で、律法によって規制されることと対比しています。
パウロが本書を書いたのは、消極面で、そらされたガラテヤの信者たちを律法から救い出し、さらに積極面で、信者たちがすべてを含む、命を与える霊を彼らの霊の中に持っていることを認識させ、彼らがこの霊の中で生き、歩き、行動するためです。(参照:ガラテヤ5:16のフットノート2)
ガラテヤ人への手紙第2章20節でパウロは、一方で、「もはやわたしではありません」と言い、もう一方で、「わたしは……生きている」と言っています。どのようにしてこれを調和させることができるのでしょう? もう一度、これは命の交換ではないことを指摘しておきたいのです。聖書を正しく解釈する方法は、聖書自身によります。これは、この節を理解しようとするなら、他の節が必要であることを意味します。ローマ人への手紙第6章6節は、わたしたちの古い人はキリストと共に十字架につけられたと告げています。この節は、キリストと共に十字架につけられたそのわたしが、古い「わたし」、古い人であるのを見るよう、わたしたちを助けます。再生された人として、わたしたちは古い「わたし」と新しい「わたし」の両方を持っています。古い「わたし」は終わらされましたが、新しい「わたし」は生きています。ガラテヤ人への手紙第2章20節には、古い「わたし」と新しい「わたし」の両方があります。古い「わたし」はキリストと共に十字架につけられ、終わらされました。ですから、パウロは、「もはやわたしではありません」と言うことができるのです。しかしながら、新しい「わたし」はなおも生きています。こういうわけで、パウロは「わたしが……生きている」と言うことができるのです。
もう一度、接ぎ木の例証がわたしたちの理解を助けます。枝が栽培された木に接ぎ木された後、その枝は生き続けます。しかしながら、枝はそれ自身で生きるのではなく、接ぎ木されたその木によって生きます。さらに、その木は、接ぎ木された枝の中で生きます。その枝は今や、接ぎ木された命を生きます。これは、枝が生きるのはそれ自身によってではなく、それが接がれた木の命によってであることを意味します。さらに、他方の命、栽培された木の命は、それ自身によって生きるのではなく、接がれた枝を通して生きます。その木の命は枝の中で生きます。最終的に、枝と木は一つの命と一つの生活を持ちます。同じ原則で、わたしたちとキリストも一つの命と一つの生活を持ちます。
それは今日、わたしたちとキリストとの関係においても同じです。わたしたちとキリストは二つの命を持っているのではありません。むしろ、わたしたちは一つの命と一つの生活を持っています。わたしたちは彼によって生き、彼はわたしたちの中で生きられます。もしわたしたちが生きていないなら、彼は生きておられません。もし彼が生きておられないなら、わたしたちは生きることはできません。一方で、わたしたちは終わらされます。もう一方で、わたしたちは存在し続けますが、彼なしに生きるのではありません。キリストはわたしたちの内側に生きておられ、わたしたちは彼と共に生きます。ですから、わたしたちと彼は一つの命と一つの生活を持っています。(ガラテヤ人への手紙ライフスタディ、第10編)
主よ、わたしたちはいまだ天然的で、旧創造に満ちています。わたしたちは自分を生き、肉によって行動しています。主よ、今あなたに向きを変え、その霊によって歩むことを願います。わたしたちの歩みが、肉の領域で、律法によって規制されることから救われますように。わたしたちの霊の内側から、聖霊によって規制されることを願います!