エペソ2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり。
召会のこれら七つの面をすべて一緒にするなら、召会のすばらしい絵を見ます。すなわち、キリストを表現するからだとして、キリストをパースンとする新しい人として、権利と責任を伴う王国として、命と享受を伴う家族として、神が住まわれる神の住まいとして、キリストの満足である花嫁として、戦って敵を打ち破り、神が永遠の目的を成就することができる戦士としての召会の絵です。これが召会です。
エペソ人への手紙の主題は召会です。エペソ人への手紙は召会の七つの面を取り扱っています。その第一はキリストのからだとしての召会、すなわち、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。生きている人が完全であるためには、自分の表現としての体を持たなければなりません。キリストのからだは、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。
キリストの豊富は、アメリカで生産されるすべての豊富な食物のようなものです。これらの豊富は展示するためではなく、食べるためです。わたしたちが豊富なアメリカの食物を食べるなら、これらの豊富はわたしたちの中へと消え去ったかのようです。これらの豊富はわたしたちによって消化され、同化されると、わたしたちの一部となります。その結果、それらはもはや豊富ではなく、豊満です。こうして、体格のよいアメリカの青年は、豊富なアメリカの食物を大量に消化して、アメリカの豊満となります。この例証によって、豊富と豊満を区別することができます。豊富は、まだわたしたちの中に取り入れられていない食物です。しかしその食物が食べられ、消化され、同化されると、それは豊満となります。キリストの豊富は、キリストが何であるかのすべての項目です。キリストの豊富を消化し、わたしたちの中に同化すると、これらの豊富はわたしたちの一部分となり、わたしたちはキリストの豊満となります。
召会が何を行なうかは、召会が何であるかほど重要ではありません。召会はからだ、新しい人、王国、家族、住まい、妻、戦士です。わたしたちが何を行なうかはあまり意味がありませんが、わたしたちが何であるかには大きな意味があります。エペソ人への手紙に記述されているような召会において、キリストが表現されます。そのような召会を通して、キリスト、そのパースンが生かし出されるのです。そのような召会に、権利と責任を伴う神の王国と、命と享受を伴う神の家族があります。この召会はまた神の住まい、キリストの満足、神の永遠の目的のために戦う神の戦士です。これは何という召会でしょう!(エペソ人への手紙ライフスタディ、第1編)
主よどうかわたしたちが、召会が何を行なうかではなく、召会が何であるかに注意を払いますように。召会はからだ、新しい人、王国、家族、住まい、妻、戦士です。どうか、わたしたちを通して、キリスト、そのパースンが生かし出されますように!