ピリピ1:21 なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり・・・・
パウロの生活は、キリストを生きることでした。彼にとって生きることはキリストであり、律法や割礼ではありませんでした。彼は律法を生きようとしたのではなく、キリストを生きようとし、律法の中に見いだされるのではなく、キリストの中に見いだされようとしました(3:9)。キリストは彼の命であるだけでなく、彼の生活でもありました。キリストが彼の中に生きておられたので(ガラテヤ2:20)、彼はキリストを生きました。彼は命においても生活においても、キリストと一つでした。彼とキリストは、一つの命と一つの生活を持っていました。彼らは一人の人として共に生きました。キリストはパウロの内側でパウロの命として生き、パウロは外側でキリストの生活として、キリストを生きました。キリストの正常な経験は彼を生きることであり、彼を生きるとは、状況にかかわりなく、常に彼を大きく表現することです。(参照:ピリピ1章21節 フットノート1)
主よ、わたしたちの生活をあなたを生きる生活としてください。わたしたちは律法の中に見いだされるのではなく、キリストの中に見いだされたいのです。再生を通しわたしたちはあなたを命として受けましたが、わたしたちは生活においてもあなたと一となりたいと願います。どうか、内側においてあなたを命として生き、外側においてあなたをわたしたちの生活とすることができますように!