ヘブル10:35 こういうわけで、あなたがたの大胆さを投げ捨ててはなりません.それには大いなる褒賞があります。
褒賞は、永遠の救いに加えて与えられるものです。永遠の救いは信仰を通して得られるものであって、わたしたちの働きとは何の関係もありません(エペソ2:8-9)。ところが褒賞は、わたしたちの救われた後の働きに対して与えられるものです(Iコリント3:8、14)。わたしたちは救われたとしても、褒賞を受けないで、むしろ損失を被るかもしれません。なぜならわたしたちは、主が承認される働きに欠けるからです(Iコリント3:15)。その褒賞は、わたしたちの働きにしたがって、主が戻ってこられる時わたしたちに与えられます(マタイ16:27.啓22:12.Iコリント4:5)。わたしたちに与えられるものは、キリストの裁きの座で決定され(IIコリント5:10)、来たるべき王国の中で享受されるでしょう。(参照:ヘブル10:35のフットノート1)
キリストはさらにまさった契約の仲保者です(ヘブル8:6)。新契約は旧契約にまさっています。それは、人の実際がその人の写真にまさっているようにです。旧契約は、写真のように、外側の形があるだけでしたが、新契約は、実際の人のように、すべての実際を伴う内なる命を持っています。旧契約には命がありませんでしたが、新契約は不朽の命で構成されています。新契約のあらゆるものは、旧契約のものにはるかにまさっています。なぜなら、新契約のあらゆるものは実際であるからです。ですから、それはさらにまさった契約です。
新契約は旧契約に置き換わりました(8:7、13)。実際の人が来る時、彼は彼の写真に置き換わります。なぜなら、実際は絵、影に置き換わるからです。旧契約には欠けたところがあり、古くなり、衰え、消えていくものであり、新契約が完成されてそれに置き換わりました。今や、だれでも依然として旧契約にとどまっていることは無意味です。
新契約における、主要な祝福は、神聖な命を分け与えることであり、内なる命の法則をもたらし、神を持ち、神の民となる祝福です。そして、それは主を知る内側の能力です。
神はこれを行なうために、わたしたちの不義に対してなだめとなり、わたしたちの罪を忘れなければなりませんでした。わたしたちの不義に対するなだめと、わたしたちの罪の赦しは、神の命をわたしたちの中に分け与える立場を神に与えます。12節はこれを証明します。神の永遠の目的に対する本来の意図は、彼の命を人の中に分け与えることでしたが、罪が入って来てそれを妨害しました。神は本来の意図を遂行するために、キリストを通してわたしたちの罪のためになだめをなし、わたしたちに罪の赦しを与えられました。それは、彼が神聖な命をわたしたちの中に分け与えて、彼の目的を成就するためでした。この神聖な命は、命の法則、わたしたちと神との命にある関係、主を知る内側の能力をもたらします。
新契約において、命とその豊富がもたらされ、罪とその罪深さが除き去られます。これが新契約の内容です。主を賛美します!(ヘブル人への手紙ライフスタディ、第36編)
主よ、わたしたちが褒賞を受け損なうことがないよう、今の時代に、あなたに承認される働きに満ちた歩みを継続させてください。わたしたちはすでに永遠の救いを得ていますが、それに加えて、あなたの来臨の時に褒賞を受け、来たるべき王国においてそれを享受することを願います。どうか、患難の中で損失を被ろうとも、主にある大胆さをもって主に承認される働きに留まることができますように!