ヘブル11:26 キリストのそしりを、エジプトの財宝にまさる富と考えました.それは、彼が褒賞をひたすら望んでいたからです。
キリストは主の御使いとして、患難にあったイスラエルの子供たちと常に共におられました(出3:2、7―9.14:19.民20:16.イザヤ63:9)。さらに、聖書はキリストと彼らを同一視しています(ホセア11:1.マタイ2:15)。ですから、彼らに及んだそしりは、キリストのそしりと見なされました。また神をそしる者たちのそしりは、キリストの上にも及びました(ローマ15:3)。新約の信者たちは彼に従う者として、彼のそしりを担い(13:13)、彼の御名のためにそしられます(Iペテロ4:14)。モーセは神の民と共に虐待されることを選び(25節)、このようなそしり、神のキリストのそしりを、パロの宮殿にあるエジプトの財宝にまさる富と考えました。それは、彼が褒賞をひたすら望んでいたからです。 (参照:ヘブル11章26節 フットノート2)
主よ、わたしたちはあなたからの褒賞をひたすら望みます。それゆえに、あなたと共にあなたの御名のためにそしりを受けることを恐れません。あなたは主の御使いとして、常に患難の中にあるわたしたちと共におられます。どうかあなたに従う者として、あなたと一となり、あなたと共にそしりを担い、褒賞を受けることができますように!