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クリスチャンの生活と苦しみ


重点の節:

Iペテロ5:8 冷静で、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔は、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと捜し求めて、歩き回っています。


詩歌:481


本日の聖書箇所:Iペテロ5:5-14文字サイズ大



本日のフットノート抜粋


 目を覚ますとは、戦闘中のように、最前線の兵士のように、油断なく警戒することです。ペテロの第一の手紙第5章8節では特に迫害に遭っている時、敵がもたらす心配事に、苦難にある信者が目を覚ましていることを言っています。

 ペテロはここで、迫害の中で苦しんでいる信者たちに警告しています。もし彼らが、神の力ある御手の下にへりくだらされようとせず(6節)、また彼らの心配事を神にゆだねようとしないなら(7節)、ほえたける獅子、悪魔、彼らの敵によって食い尽くされるでしょう。このことは、高ぶりと心配事が、わたしたちをほえたける獅子の飢えを満たす絶好の獲物にすることを教えます。このことでは疑いもなく、ペテロはかつて主が悪魔の願望について彼に警告されたことを、忘れることができませんでした。(参照:Iペテロ5:8のフットノート2フットノート7


命の供給

 キリストは苦難の生活をされました。今やわたしたちは同種の生活をする彼のパートナーです。ヘブル人への手紙によると、わたしたちはキリストにあずかる者たちであるだけでなく、彼のパートナーでもあります(ヘブル3:14)。わたしたちは苦難を受ける生活をすることにおいて、彼と協力します。わたしたちは苦難の道で彼に従います。これは、キリストが苦しまれたことをわたしたちも苦しむことを意味します。こういうわけで、わたしたちがこのようにしてキリストのために苦しむ時、わたしたちの苦難はキリストの苦難として神によって勘定されるのです。

 わたしたちは失望すべきではありません。なぜなら、わたしたちはクリスチャンとして苦難を受けなければならないからです。これらの苦難は積極的でありまた非常に貴重です。キリストのもろもろの苦難を経験するとは、何という特権でしょう! パウロは、自分はキリストのからだなる召会のために、キリストの苦しみの欠けたところを補うとさえ言うことができました(コロサイ1:24)。彼はまた、ピリピ人への手紙第3章10節で、キリストの苦難の交わりについて語ります。今日わたしたちはクリスチャンであり、キリストの苦難を受けるキリストの追従者であるべきです。わたしたちはキリストのもろもろの豊富にだけでなく、キリストのもろもろの苦難にもあずかる必要があります。もしわたしたちがこの観点を取るなら、わたしたちがキリストのために苦難を受けるどんな時でも励まされるでしょう。わたしたちはこの種の苦難を歓迎さえするかもしれません。いかにも、わたしたちは烈火の苦難に直面するでしょう。しかしこれらはそこにおいてわたしたちがあずかる特権を持つ、キリストのもろもろの苦難です。

 わたしたちの受ける迫害がキリストのもろもろの苦難である理由は、わたしたちがキリストの御名の中で苦しむからです。ペテロの第一の手紙第4章14節のペテロの言葉によると、もしわたしたちがキリストの御名の中でそしられるなら、わたしたちは幸いです。キリストの御名の中でそしられることはのろいであると考えてはなりません。これは幸いなことです。しかしながら、もし人々がわたしたちをあまりにも高く評価しすぎるなら、それはのろいであるかもしれません。この事柄に関して、わたしたちは観念を変える必要があります。

 わたしたちが苦難を受けまた迫害されればされるほど、ますます栄光がわたしたちの上にあるでしょう。これは真に祝福です。わたしは自分が迫害されまた悪口を言われれば言われるほど、ますます力づけられることを証しできます。迫害とそしりはわたしを抑えつけません。反対に、それはわたしを引き上げます。こういうわけで、わたしたちはキリストの御名の中でそしられる時、喜ぶべきです。なぜなら栄光の霊がわたしたちの上にとどまっているからです。(ペテロの第一の手紙ライフスタディ、メッセージ28)


祈り

主よ、わたしたちが御手の下にへりくだり、心配事を神にゆだねることを学ばせてください。わたしたちには敵がおり、冷静で、目を覚ましつつ、油断なく警戒する必要があります。わたしたちがほえたける獅子の飢えを満たす絶好の獲物となってしまうことがないよう、苦難の中にあっても、へりくだりとゆだねることを訓練して下さいますように!


明日の主題:私たちは神聖な性質にあずかる者となる