啓2:26 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで保つ者には、諸国民を治める権威を与える.
キリストのからだである召会(Iコリント12:12-13)は、宇宙において一つです(エペソ1:22-23.4:4-6)。ユニークなかしらとしてのキリストは、彼のすべての真の信者で構成される一つのユニークなからだを持っておられます。
キリストのからだとしての宇宙召会は、地方召会によって表現されます。キリストの一つのからだの表現としての地方召会は(啓1:12、20)、地方的に一つです。
啓示録第1章11節で、声はヨハネに言いました、「あなたが見ていることを巻物に書いて、七つの召会に、すなわち、エペソに、スミルナに、ペルガモに、テアテラに、サルデスに、ヒラデルヒヤに、ラオデキヤに送りなさい」。この節は非常に重要な方法で構成されています。この節で、この書を「七つの召会」に送ることは、それを七つの都市に送るのに等しいことを見ます。これは、初期のころの召会生活の実行が、一都市一召会、一つの都市に一つの召会であったことを明確に示します。どの都市にも召会は一つしかありませんでした。地方召会は、地方都市を範囲とする召会であって、通りの範囲、地区の範囲の召会ではありません。一地方召会の管轄区域は、その召会の所在する全都市に及ぶべきであって、その都市の境界より大きくも小さくもあってはなりません。その境界内のすべての信者は、その都市内で唯一無二の地方召会を構成すべきです。ですから、一つの召会は一つの都市に等しく、一つの都市は一つの召会に等しいのです。これが、わたしたちが地方召会と呼んでいるものです。
地方召会に入ってくるまで、わたしたちは放浪者でした。わたしたちは家に来たとか、目的地に到達したと感じたことはありませんでした。しかし地方召会に入ったその日、わたしたちは家に来たことを認識しました。何年間もさまよった後、ついに目的地に着いたことを知りました。わたしたちがはじめて地方召会に入って来た時、内側深くでだれかが、「ここだ」と言いました。そしてわたしたちは家にいることがわかりました。なぜなら、わたしたちは目的地に着いたからです。もう旅をする必要はないのです。今日、多くの追い求めているクリスチャンは旅人です。彼らはある宗派、団体から別の宗派、団体へと旅をしています。しかし召会生活に入って来たその日、わたしたちのさまようことは終わりました。(啓示録ライフスタディ、第7編)
主よ、わたしたちはテアテラに在る召会からこの世的な召会、背教の召会の絵を見ます。どうかわたしたちがこの様な背教から救われますように。イゼベルという女は神と人の満足のための穀物のささげ物としてのキリストにパン種として邪悪で、異端で、異教的なものを入れました。この女は大遊女であり、忌むべきものと神聖なものを混ぜ合わせています。どうか、わたしたちがこの様な混合から救われますように。わたしたちが持つ純粋で神聖な穀物のささげ物としてのキリストを保ち続け、背教から救われ、わたしたちが帰るべき家へと到達することができますように。