啓20:6 第一の復活にあずかる者は、幸いであり、聖である.これらの人たちに対して、第二の死は何の権威もない.彼らは神とキリストの祭司であり、千年の間、彼と共に支配する。
啓示録第19章4節は言います、「すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座に座しておられる神を礼拝して、『アーメン、ハレルヤ!』と言った」。天の大群衆の大声が「ハレルヤ」と言った後、二十四人の長老と四つの生き物は、「アーメン、ハレルヤ!」と言います。「アーメン」が先に来るのは、幾つかのハレルヤがすでに言われていたからです。二十四人の長老と四つの生き物は、これらのハレルヤに対して「アーメン」と言い、さらに彼ら自身のハレルヤを付け加えます。
1967年、主はわたしたちに、御名をどのように呼ぶかを示されました。それと同時に、わたしたちは彼を絶えず賛美すべきであることを見始めました。1967年と1968年のわたしたちの集会は、アーメンとハレルヤで満ちていました。宗教的な人たちはこのことでわたしたちを罪定めし、宗教のバビロンの小さな部分はわたしたちに敵対して立ち上がりました。わたしにはなぜだかわかりませんが、彼らはわたしたちがアーメンとハレルヤで主を賛美することに反対するのです。しかし啓示録は、このように主を賛美することは将来の実行であることを示しています。将来、天で実行されることは、今日、地上でわたしたちによって実行されてもよいのです。(啓示録ライフスタディ、第53編)
有名な詩歌、「幸いな確証」(詩歌265番)の折り返しはこう言っています、
多くのクリスチャンはこの詩歌を歌いました、しかし彼らの救い主を一日中賛美する人は多くありません。もしわたしたちが一日中主を賛美するとしたら、どんな事になると思いますか。疑いもなく、わたしたちは徹底的に主の中に浸し込まれるでしょう。
召会の集会はわたしたちの日常生活の継続であるべきです。わたしたちはわたしたちの日常生活の中で歌いまた賛美すべきであり、それから集会においてわたしたちの歌うことと賛美することとを継続すべきです。しかしもしわたしたちが日常生活の中で彼を賛美しないのに、集会において主を賛美するとしたら、わたしたちの集会は一つの演技であり、またわたしたちは役者であるでしょう。わたしたちは演技しに来るのではなく、日常生活での、わたしたちであるものを表現するために集会に来るべきです。(出エジプト記ライフスタディ、メッセージ58)
主よ、わたしたちは勝利者として第一の復活にあずかりたいです。わたしたちは来たるべき千年王国において神とキリストに近づく祭司として、キリストと共に諸国民を支配する王となることを望みます。どうか、祭司として、奉仕を享受することによって神とキリストを満足させ、王として、神のために支配し神を代表して人を牧し、人を享受させ満足させる者として下さい。わたしたちは今日も褒賞を目指して祭司の訓練にあずかります。