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神に対して正しいのか?人に対して正しいのか?


重点の節:

ローマ5:17  もし一人の違犯によって、死が一人を通して支配したとするなら、あふれるばかりの恵みと義の賜物を受ける者たちは、なおさら一人の方、イエス・キリストを通して、命の中で支配するはずです。


詩歌:435


本日の聖書箇所:ローマ5:12-21文字サイズ大



本日のフットノート抜粋


 義の賜物は、裁きを消し去ります。裁きは罪から来ますが、義は恵みから来ます。義は常に恵みを伴い、また恵みの結果でもあります。主観的な義は恵みから来ます。そして恵みは客観的な義から来ます。

 義認を通して、わたしたちは神の義の標準に達し、それに調和します。ですから今や、神は彼の命をわたしたちに分け与えることができるのです。義認は、わたしたちの外側の立場を変えます。命は、わたしたちの内側の性質を変えます。命に至る義認は、命がローマ人への手紙第5章の焦点であり、命の有機的結合が義認の結果であることを示しています。(参照:ローマ5:17のフットノート218節のフットノート2


命の供給

 義認とは何でしょうか? 義認とは、神の義が現されたことを意味します。神の義は世々にわたって存在していましたが、わたしたちが主を信じ、彼の御名を呼ぶ時まで、わたしたちに現されませんでした。その時、神の義はわたしたちに啓示されました。神の義が啓示される時、それは現されます。わたしたちが主イエスを信じる時、それはわたしたちに現されます。

 わたしたちの経験によれば、神がまずわたしたちを是認されたのではなく、わたしたちがまず神を是認しました。神がどれほどの時間を費やして、彼の義をわたしたちに納得させられたか、わかりません。わたしたちは反逆的であって、「神は嫌いだ。神は正しくない」と言いました。わたしたちは救われる前、みなこのように思いました。多くの人は神に言い逆らい、「神が正しいなら、なぜこの世に多くの貧しい人がいるのか? 神が正しいなら、なぜ諸国民の間に正義がないのか?」と言いました。彼らは神がおられることを認めますが、神は義ではないと主張します。わたしたちの多くは同じことを証しし、神は間違っている、神は義ではないと考えたと告白することができます。しかしながら、神はわたしたちに忍耐強くあって、最終的に彼の義を納得させるまで、わたしたちのために多くの事を行なわれました。まずだれがだれを義としたのでしょうか? わたしたちがまず神を義としたのです。わたしたちは神によって彼の義であることを納得させられた時、神を義とし、悔い改めて泣いて、「神よ、赦してください。わたしはとても罪深い汚れた者です。わたしはあなたの赦しを必要とします」と言いました。わたしたちが主イエスの御名を呼んだ時、キリストの中へだけでなく、キリストの上に置かれました。今やわたしたちは、わたしたちのなだめの場所としてのキリストの上におり、そこで神とわたしたちは互いに義とすることができます。わたしたちは、「神よ、あなたは義です。わたしはあなたに何の問題もありません」と宣言します。すると神は、「愛する子よ、わたしもあなたに何の問題もない」と答えられます。まず、わたしたちが神を是認し、次に神がわたしたちを是認されました。わたしたちが神を義とし、次に神がわたしたちを義とされました。

 このゆえに、誇りは除き去られます。わたしたちのだれも、誇るべきものを持っていません。わたしたちが義とされたのは、行ないの法則によってではなく、信仰の法則によってです(ローマ3:27)。この信仰は、わたしたちから始まるのではありません。それは生けるキリストのものです。(ローマ人への手紙ライフスタディ、第5編)


祈り

主よ恵みと義の賜物を感謝します。主観的な義は恵みから来ます。そして恵みは客観的な義から来ます。主よ、あなたは義認を通して、わたしたちを神の義の標準に至らせ、それに調和されます。主に感謝します!今や、神はご自身の命をわたしたちに分け与えることができ、わたしたちの内側の性質を変えます。この義認のゆえに今日も命の有機的結合を享受します!


明日の主題:キリストが経過されたものはすべて、わたしたちの歴史となる