マタイ10:32 それゆえに、だれでもわたしの中で、人々の前でわたしを言い表す者は、わたしもその人の中で、天におられるわたしの父の御前でその人を言い表す。
マタイによる福音書第9章17節で主イエスは言われました、「新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れる.そうすれば、両方とも保たれる」。新鮮な皮袋は、新しいぶどう酒の容器としての地方召会の召会生活を表徴します。その新しいぶどう酒は、わき立たせる命であるキリストご自身です。王国の民は、召会の中に建造し込まれ(16:18)、召会は、彼らがその中で生活している諸地方召会を通して表現されます(18:15-20)。彼らは再生された人たちであり、キリストのからだを構成し、召会となります(ローマ12:5.エペソ1:22-23)。キリストの豊満であるこのキリストのからだは、「あのキリスト」(Iコリント12:12、直訳)とも呼ばれます。これは団体のキリストです。個人のキリストは新しいぶどう酒であり、内側でわき立たせる命です。そして団体のキリストは新鮮な皮袋であり、新しいぶどう酒を外側で保つ容器です。王国の民にとって、断食するとか、他の宗教的実践の事柄ではなく、内容としてのキリストを伴う召会生活です。キリストが来られたのは、儀式による地的な宗教を打ち建てるためではなく、命による天の王国を打ち建てるためです。それも死んだ宗教的実践をもってではなく、彼ご自身をもって、すなわち医者、花婿、縮ませていない布、彼に従う者にとっては全き享受としての新しい酒である生けるパースンをもってです。それは、彼らが彼を入れる新鮮な皮袋となり、彼の王国の構成要素となるためです。
わたしたちは、新鮮な皮袋は召会生活であることを見ます。召会は実はキリストの拡大です。個人のキリストは、わたしたちの内側のぶどう酒です。この個人のキリストが拡大されて団体のキリストになる時、それが召会です。この団体のキリストが、わたしたちのぶどう酒である個人のキリストを入れる皮袋、入れ物です。決して召会を宗教と考えてはなりません。召会はキリストに満ちた団体の実体です。なぜなら、召会は拡大されたキリストであるからです。
キリストはわたしたちの新しい衣、新しいぶどう酒であるだけでなく、増加されると、そのぶどう酒を入れるわたしたちの新鮮な皮袋でもあります。彼はわたしたちの外側の資格であり、わたしたちの内側の満足であり、そのぶどう酒を入れることができる団体での召会、からだです(12節)。キリストはすべてです。彼は花婿、新しい衣、新しいぶどう酒であり、彼を享受するものを入れる団体の器です。ここで意味していることは非常に深遠です。(マタイによる福音書ライフスタディ、第28編)
主よ、わたしたちはあなたとの結合の中で、人々の前であなたを言い表します。わたしたちは天の王国の出現の中へと救われることを願います。どうか、勝利を得る信者たちとして褒賞を得ることができますように。たとえあなたの名のゆえに、すべての人に憎まれても最後まで耐え忍び、救いへと入ることができますように。あなたがわたしたちとの結合の中で、父の御前でわたしたちをを言い表すことを願います!