マタイ28:19 だから、行って、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、
マタイ28:20 わたしがあなたがたに命じておいたことを、すべて守るように教えなさい。見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる。
人々を父と子と霊の名の中へとバプテスマすることは、彼らをキリストの名の中へとバプテスマすることであり(使徒8:16.19:5)、彼らをキリストの名の中へとバプテスマすることは、キリストのパースンの中へとバプテスマすることであると(ガラテヤ3:27.ローマ6:3)示されています。なぜなら、キリストは三一の神の化身であり、命を与える霊と成って(Iコリント15:45)、どんな時どんな場所でも、人々が彼の中へとバプテスマされるのに便利な方であることが、明らかにされているからです。父と子と霊の実際の中へとバプテスマされることは、マタイによれば、天の王国の設立のためです。(参照:マタイ28章19節 フットノート6)
マタイによる福音書第28章18節は言います、「イエスは来て、彼らに語って言われた、『天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている』」。マタイによる福音書では息の事柄ではなく、権威の事柄です。ヨハネの関心は命にありました。命は息を必要とします。しかしマタイの関心は王国にありました。王国は権威を必要とします。ヨハネによる福音書は、わたしたちが小羊を顧み、主の羊の群れを養うのに命が必要であることを啓示します。しかしマタイによる福音書第28章には、小羊を養うことについての言葉はありません。マタイによる福音書では、主は弟子たちに、すべての国民を弟子とし(19節)、すべての国民を王国の一部とするようにと命じておられます。これには権威が必要です。ですから、ヨハネによる福音書では復活は命、力、息、牧養するという事柄です。しかしながら、マタイによる福音書では義、権威、諸国民を弟子とするという事柄です。
19節は言います、「だから、行って、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして」。いっさいの権威が彼に与えられているので、天の王は彼の弟子たちに、すべての国民を弟子とするために遣わされました。弟子たちは彼の権威をもって行きます。諸国民を弟子とするとは、彼の王国の設立のために、異教徒を王国の民とすることです。その王国とは今日、この地上における召会です。
主が弟子たちに、福音を宣べ伝えるというのではなく、諸国民を弟子とするように命じられたことに注意してください。福音を宣べ伝えることと、諸国民を弟子とすることとの違いは、福音を宣べ伝えるとは単に罪人を救いにもたらすことであり、諸国民を弟子とするとは異邦人を王国の民とすることである、ということです。わたしたちが主に遣わされたのは、人々を救いにもたらすためだけでなく、諸国民を弟子とするためでもあります。これは王国の事柄です。
20節で主は彼の弟子たちに告げられました、「見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる」。天の王はインマヌエル、神われらと共にいますです(1:23)。ここで彼は、復活の中でいっさいの権威をもって、この時代の満了まで、すなわち、この時代の終わりまで、日々、わたしたちと共にいることを約束されました。
主の義を伴う主の復活の中で、王国は現にあり、わたしたちは諸国民を弟子とする権威、委託、地位を持っています。このようにして王国は広がっていきます。(マタイによる福音書ライフスタディ、第72編)
主よ、あなたはこの時代が終わるまで、日々わたしたちと共におられると約束されました。ゆえに、わたしたちはあなたが命じられたことを守ります。わたしたちは出て行き、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へとバプテスマします。このバプテスマを通し、人々はキリストの名の中へと、キリストのパースンの中へとバプテスマされます。わたしたちは今日も諸国民を弟子とする権威、委託、地位を持って出て行き、異邦人を王国の民とし、天の王国を設立します!